児の手柏

KONOTEGASHIWA

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祥應寺のコノテガシワ

推定樹齢600年、日本最大最古のコノテガシワ。

享保十一年(1726年)、武蔵国分尼寺跡北丘に位置した旧跡(伝祥應寺)にあった二本のコノテガシワの古木が、現在の地に移植されました。残念ながらそのうちの一本は落雷によって枯れ、残る一本が現存するものです。枯れた方の古木は、昭和七年(1932年)に根株が掘り出され開運地蔵尊として開眼しました。仏像の背面には「推定古木六百年余」と刻まれており、境内に現存するコノテガシワは樹齢600年以上で日本全国の中でも最大最古とされています。現在、市の重要天然記念物に指定されています。

樹高12メートル、幹の直径91センチで、大枝の先はこんもりと枝葉が茂って丸い緑の塊となり、それが幾つも重なって樹冠を作っています。その姿が子供の手の平を立てたように見えることが「児の手柏(コノテガシワ)」の名前の由来とされています。もともと中国の原産で寺院の庭などに植えられていたそうですから、仏教と関係がある樹木の一つであったようです。六月ごろにコンペイトウに似た小さな球果をつけます。葉は側柏葉(そくはくよう)といい止血用に、種子は柏子仁(はくしにん)といって滋養強壮剤の漢方薬として使われました。

小学校への記念植樹

平成27年(2015年)、祥應寺再興300年事業の記念樹(児の手柏の苗木)が市内の小中学校に植樹されました。子供たちの輝かしい未来を見守りながらすくすく成長しています。

コノテガシワの歴史

奈良山の 児の手柏の 両面に
かにもかくにも 侫人の伴 (歌人:背奈行文)

千葉の野の 児の手柏の 含まれど
あやにかなしみ 置きてたか来ぬ (歌人:太田部足人)

─ 万葉集より ─

その歴史は古く、万葉集でも詠まれた縁起樹

コノテガシワは「百木の長」と尊称され、古代中国歴史書「史記(亀策列伝)」に登場します。葉を落とさず茂り、姿は常住不変で長命、長生、長福の縁起樹として宮殿や寺院の庭園に植栽されてきました。コノテガシワの実は「柏樹子」と呼ばれ、禅語録「無門関」に登場します。120歳という長命であった主人公の趙州禅師(775-897)は、禅問答で「如何なるか是れ祖師西来意」の問いに対し、趙州禅師は「庭前の柏樹子」と答えています。
また、中国陝西省にある黄帝廟に黄帝が手植したコノテガシワがあります。現在は「世界柏樹の父」と称され、樹齢は5000年にもなるそうです。コノテガシワは中国において特別な縁起樹であり、首都北京市のシンボルツリーとなっています。

日本では上記万葉集の和歌に「児の手柏」の名が登場します。小枝は児の手のように側立して広がり、また葉の両面の見分けがつかないことから「児の手柏の両面に」と、その特徴をとらえて詠まれています。「かにもかくにも佞人の伴」とは、どちらにもいい顔をして媚び諂うさまを表しています。 そもそも日本での「柏」は、柏餅のカシワ(ブナ科)とコノテガシワ(ヒノキ科)と異種混在します。「カシワ」は「炊ぐ葉」が転訛したもので、神前にお供えする葉、炊いたり蒸したりする時に使用する葉、かつ縁起がよく神聖視される樹を総じて「カシワ」と呼んだようで、そのため柏の字を「カシワ」と訳したようです。 コノテガシワに漢名の「側柏」という字をあてるようになったのは『大和本草』(宝永六年)以来で、一般的にコノテガシワが日本に渡来した時期を江戸時代としていますが、延喜式(典薬寮)にコノテガシワの種子「柏子仁」の記録があることから、かなり古い時代より渡来人によって齎されていたのは確かなようです。歌人の背奈行文も渡来系士族のひとりでした。

天正十三年(741年)に聖武天皇より国分寺建立の詔が出され、国家安泰と無病息災を願い各国に国分寺、国分尼寺の創建を行う計画がはじまります。武蔵国分寺創建にあたり和歌を詠んだ背奈行文の甥である高倉福信(背奈福信)が武蔵守在任の間に築かれました。二人の関係性からわかるように、祥應寺の境内にあるコノテガシワはこの時代から武蔵国分寺周辺に植栽されたものか、もしくはその子孫であることが想像できます。 旧跡に遺された古木は現今の地に移植され、いまもなお力強く根をおろしています。