祥應寺について

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伝祥應寺(旧跡)の歴史

府中六所ニアル所ノ鉄像ノ弥陀ハ昔此谷ヨリ掘出セシモノナリト云フ、
此所ノ丘林ヲ祥應寺跡ト呼ブ、コノ地モ旧跡ト見ヘテ古瓦ヲ多ク掘出シテ散乱ス、
国分寺ノ瓦ト一様ノモノナリ

─ 『新篇武蔵風土紀稿』巻四 ─

伝祥應寺、法灯240年余の歴史。

伝祥應寺は、鎌倉時代に武蔵国分尼寺跡(現在の国分寺市西元町・黒鐘公園)の北丘に興ります。 開山由緒は不明ですが、当地の発掘調査で数十基の板碑等が出てきていることから、阿弥陀信仰の盛んな寺院であったことがわかっています。板碑の最古のものでは正応元年(1288年)とあり、国分尼寺の焼失以前から祥應寺が建てられていたのではないかと考えられています。 口碑によれば、この旧跡から鉄仏の阿弥陀像が掘り出され、黒鉄(くろがね)のお姿であったことから、村人は当地を「黒金」と呼んだそうです。祥應寺の山号「黒金山」の由来となっています。

府中六所とは、大国魂神社(府中市)のことで、旧跡から掘り出された鉄仏は大國魂神社に運ばれた後に神輿庫と不動堂の間の堂宇に祀られていましたが、明治初期の神仏分離令により近隣の寺院に移されたと伝えられています。
伝祥應寺の法灯期間は、この阿弥陀像の製造時期から発掘された中で最も新しい板碑の建立時期を下限とすると、建長五年(1253年)から明応二年(1493年)までの240年余りの期間であったと考えられています。

伝祥應寺跡出土の板碑(複製)

伝祥應寺があった旧跡で阿弥陀信仰の板碑や風鐸などが出土しています。数十基ある中の二基の板碑が再興から300年を記念して現在の祥應寺境内に建立された記念碑に彫刻されています。
板碑はおもに武蔵型板碑が多く、関東地方で鎌倉時代から室町時代に集中して広く分布した供養塔です。頭部山形、二条線、身部は蓮台の上に仏画または梵字が刻まれているのが特徴です。

伝祥應寺再興の機縁

幕府の新田開発の奨励と再興300年の歴史。

時は江戸時代、国分寺村の名主であった本多三左衛門の子、本多儀右衛門と本多仲右衛門の兄弟が、享保二年(1717年)に伝祥應寺(旧跡)の再興を幕府に願い出ました。再興開山にあたり、黄檗宗の深川海福寺六代住持であった恢門道頂禅師に懇請し、これを許されます。

徳川八代将軍吉宗公による享保の改革では、一万石以上にも及ぶ武蔵野台地の新田開発が行われました。 享保十二年(1726年)、野中新田の一部の割譲を受けて本多兄弟による「本多新田」が誕生します。その際、本多新田の村人の菩提所として祥應寺の引き寺(寺院の移転)の願いが幕府から許され、旧跡から現今の地に移されました。また、同時に旧跡に古くから植えられていた万葉植物コノテガシワ(児の手柏)の二本の古木も移され、うち一本は枯れてしまいましたが、残りの一本は現存しています。

児の手柏について

伝祥應寺(旧跡)から運ばれた礎石

古老の談によれば、この礎石は明治三十六年(1903年)の「本村八幡神社」社殿再建の際に伝祥應寺跡から運ばれたものだそうです。本村八幡神社は、国分寺市西元町にある神社で、創設は定かではありませんが、享保五年(1720年)社殿建築の資料があり古い歴史を持つ神社です。5月の第3土・日曜日に行われる本村八幡神社祭礼には、多くの人々が集まります。

黄檗宗について

日本三大禅宗の一つである黄檗宗(おうばくしゅう)は、中国の明時代の高僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」を宗祖とし、京都府宇治市の黄檗山萬福寺を本山としています。「黄檗宗」の宗名は明治九年に改めたもので、臨済正宗や臨済宗黄檗派という別称がありました。

日本からの度重なる招請に応え、承応三年(1654年)に隠元禅師は中国の厦門を出立して日本の長崎に渡来されました。やがて四代将軍徳川家綱から京都宇治に土地を寄進され、寛文元年(1661年)に黄檗山萬福寺が開創されます。
萬福寺の歴代住職の多くは中国から来られた僧侶で、朝夕のお勤めをはじめ儀式作法、法式、梵唄(ぼんばい)に至るまで、中国明時代に行われた仏教儀礼に基づいて唐音による中国語で今日も執り行われています。仏具である木魚(もくぎょ)は他の宗派でも使われるようになりました。

また、黄檗僧と一緒に来日した仏師や絵師らの芸術家や印刷や篆刻などの技術者がもたらした明時代の文化「黄檗文化」が、日本の社会に新鮮な衝撃を与え、後に文人画や煎茶道の流行にみられるような新風を巻き起こし、黄檗宗が日本文化に与えた影響は大きなものがあったのです。

黄檗宗大本山萬福寺HP

歴代の祖師

住職からの挨拶

お寺のホームページをご覧頂き誠に有難うございます。
お寺の境内に根をおろす日本最大最古とされる万葉植物コノテガシワ(児の手柏)は別名「千手(センジュ)」とも呼ばれ、慈悲の深い千手観音さまの縁起樹です。近年になって書籍などにも紹介されるようになり、お寺のシンボルツリーとなっています。

開運地蔵尊が祀られる大願堂(六角堂)、武蔵陵苑(納骨堂)、きわだ斎場(葬儀式場)などの充実した施設とゆとりのある境内がお寺の特徴でもありますが、発電機や地下水(掘削80m)を設えるなど、緊急災害時にも対応できるよう万全の備えを日々心がけています。

地域があってのお寺、お寺があっての地域というように寺社、町会、商店会などが協力しあい、よりよいまちづくりと誇らしい日本の歴史と文化の継承に繋がれば幸甚です。 お寺は車いすの方でもお参りしやすく、敷居を無くして最善の配慮を施しておりますので、各種イベントにご参加いただくなど、皆様とのご縁を心よりお待ちしています。

祥應寺住職 合掌