黄檗宗について

日本の仏教は禅宗、浄土教、密教等とで分れ、さらに禅宗は黄檗宗、臨済宗、曹洞宗の三派に分かれます。

黄檗宗は承応三年(1654年)に中国福建省福州にある古刹黄檗山萬福寺の住職であった隠元禅師の渡来によって伝えられました。

宗名の「黄檗宗」は、臨済宗祖臨済義玄の師である黄檗希運禅師の名の由来にもなっている古刹「黄檗山」の山号から取られています。「臨済正宗」とか「臨済宗黄檗派」と称していた時期がありましたが、明治9年に「黄檗宗」と改称し今日に至ります。

黄檗宗は念仏禅、密禅兼修と例えられるように、その当時の中国仏教を強く影響を受けており、座禅もすれば念仏も唱え、密教も伝授する宗派です。

黄檗宗のお経は中国語(唐音)で読まれ、木魚などの楽器を使用するリズミカルな梵唄(ぼんばい)は時おり国立劇場などで公演されています。

 

黒金山祥應寺と本多の歴史

元の祥應寺は鎌倉中期武蔵国分尼寺跡(国分寺市西元町・黒鐘公園)の北丘に起こります。開山由緒は不明ですが、阿弥陀信仰の盛な寺院でした。ある時、古址より本尊と思われる阿弥陀さまの鉄仏が掘り出され、黒鉄(くろがね)のお姿であったことから村人はかの地を「黒金」と呼びました。鉄仏は六所宮(大國魂神社)に遷座したのち、明治期の神仏分離によりほかの寺院に移されました。

享保二年(一七一七)国分寺村の名主本多儀右衛門が古址祥應寺の再興を発願。黄檗宗の僧恢門道頂禅師を再興開山に懇請し、寺社奉行より許可を得ます。享保の改革の一環で1万石以上にも及ぶ武蔵野台地の新田開発が行われ、享保一一年(一七二六)初代太洲元皓禅師、ならびに新田開発者によって古址祥應寺を現今の地に引寺して、山号は古址に肖り「黒金山」となります。その後「本多新田」が誕生しました。