![]() |
|
コノテガシワ(児の手柏・側柏) ヒノキ科 常緑針葉樹 |
祥應寺のコノテガシワは享保十一年(1726年)、武蔵国分尼寺跡北側に位置した旧祥應寺にあった二本の樹を現在の地へ移植されました。天災の影響によってか一本は枯れ、残る一本が現存するものです。
枯れた方の樹は、昭和七年に根株が掘り出され開運地蔵尊として開眼しました。現在は祥應寺墓苑入り口に安置されています。
~奈良山の 児の手柏の 両面に
かにもかくにも ねぢけ人の徒 (消奈行文)~
~千葉の野の 児の手柏の 含まれど
あやにかなしみ 置きてたか来ぬ (太田部足人)~
コノテガシワは、常緑で葉を落とさず茂る事から「百木の長」として古代中国の歴史書『史記(亀策列伝)』に登場します。姿は常住不変で長命、長生、長福の象徴として宮殿や寺院の庭園に植栽されてきた歴史があります。漢の武帝(紀元前110年)の頃、中国山東省に位置する泰山の霊廟で天子が即位する際の封禅の儀が行なわれ、武帝がここにコノテガシワを植えたそうです。
コノテガシワは別名「柏樹子」とも呼ばれ、禅語録『無門関』でも登場します。これに登場する趙州禅師(775-897)は120歳という長命であったそうです。
日本では上記万葉集の和歌に登場します。この和歌のコノテガシワは落葉樹のカシワの木をさす説がありますが、和歌を詠んだ消奈行文(武蔵国高麗郡)は高句麗王族出身の家系であり、中国、朝鮮で重宝されていたコノテガシワの知見はあったと思われます。日本では平安時代に律令制の典薬寮が各国にコノテガシワの種子の柏子仁(はくしにん)を漢方用に栽培させていたことから、平安時代にはすでにコノテガシワが輸入されていたのです。
天正十三年(741年)に聖武天皇より国分寺建立の詔が出され、国家安泰と消災吉祥を願い各国に国分寺、国分尼寺の創建計画がはじまります。武蔵国分寺創建にあたっては消奈行文の甥である高倉福信(背奈福信)が武蔵守在任の間に築かれました。 祥應寺にあるコノテガシワはこの時代より武蔵国分寺境内に植栽されたものか、もしくはその子孫であると思われます。
大変貴重な樹木であったからこそ、わざわざ旧祥應寺(武蔵国分寺、国分尼寺跡地)から現在の祥應寺まで移植されたのでしょう。
日本では数少ない貴重なコノテガシワの巨樹が、東京都国分寺市の大地にいまも力強く根付いています。